花粉症

花粉症つらい。

去年まで、なんなら一昨日まで効いていた薬が、

今日は効かない。

もしかして、ワクチン3回目を打ったから、免疫がなんか変更されて、

それまで効いていた薬が合わなくなったとか、ある?

そんなことはないと思いつつ、そうでもなければ今日くしゃみが止まらない理由が見つからないと思うのであった。

 

仕事辞めたい

私は私の人生の主権を取り戻したかっただけなのだ

求められるレベルは高いし、教育体制は不十分だし、評価はされず、クライアントからも感謝されず。

なにをモチベーションに仕事をすればいいのか。

同僚と楽しくおしゃべりするために仕事に行くとか、そうやって焦点をずらして自分をだましてみたりもしてみるが、

そもそも同僚とあまり会わない働き方である。

クライアントに行くか、在宅で仕事をするか。

事務所にはあまり行かない。仲のいい同僚に会うことも少ない。

やはり仕事自体にやりがいやたのしさを見出さなければやってられない。

しかし、それは今のところ見つからない。

一方で後輩が入ってきて、先輩としての役割を期待される。

自然と求められる水準も上がる。

つらい。ひたすらつらい。休日も勉強しなければいけない。

遊んだり、休んだり、気分を変えなければやっていられないが、それでは仕事ができるようにならないのだ。

自分の能力の範囲内で仕事をしたい。

自分の能力より上の範囲の仕事を任せられて「成長できるよ!」と言われても、続けられない。

生活にも仕事にも余裕がなければ、息が詰まり、追い詰められるだけだ。

だから、いまは、

仕事がつらい、仕事を辞めたい、と、言い続けてしまう。

 

どうかどうか。

未来の自分が、この記事を笑い飛ばせるような生活をしていますように。

覚書

仕事する人格で仕事する。

仕事する人格はプライベートの人格とは異なる。

仕事とプライベートが分かれすぎているのって結構問題では????

 

妊娠出産に代表されるように、プライベートの出来事が仕事に影響を与えることはおかしくない。

というか生きるというレベルでは、仕事もプライベートも同じ俎上に乗る。

最近ようやく(?)妊娠出産に対しては理解を示そう、休業を認めて子どもを育てやすい環境にしよう、というのが当たり前になりつつある。

でも、セクマイは。

セクマイに対する理解を掲げている会社だって多くないし、その理解も十分とは限らない。

でも日常の会話で普通に出てくる。

結婚は、恋人は、子どもは。

世間話の線上で普通に語られる。

そういったところに、セクマイがいる、理解しよう、という動きは素晴らしいと思う。

でも、それは根本の部分で、仕事とプライベートは分けているという建前と、仕事とプライベートがごちゃ混ぜになっている現状に目を背けている、ということがあるように思う。

セクマイを見えないものとして扱いたい人たちは「彼ら/彼女らがプライベートでどうしてようが関係ない」という思いがあるように思う。

それこそ、就活の話で指摘した「仕事上の人格」を重視するというものだ。

でも、ストレートであれば受けられる福利厚生を受けられないとか、確実に仕事に影響があるのだ。

セクマイに理解がある状況というのは、「仕事上の人格」からはみ出た、その人自身の部分も受け止めるということだ。

 

とここまで考えたときに、ありのままの自分で就活し仕事することがなぜダメなのか、わからなくなる。

ありのままの自分だって、友達に嫌われたくないし、集団を乱そうとは思わないし、うまくやっていこうと努力する。

それじゃいけないのか。

はみでたありのままを受け止めるなら、最初からありのままで仕事してもいいんじゃないか?

 

うまくまとまらないので脱兎

所感

社会で生きていくことは、社会に適合することであり、そして個性が剝ぎ取られることである。

そんな所感を抱いてしまう、アラサーです。

 

私が育った時代は、個性を大事にしよう、と言われ始めた時代でした。

幼いころは、みんな違ってみんないい、と言われ、

小学校では多様な意見を言うように言われ、

中学校は連帯責任で不良のための学年集会に付き合わされ、

高校は個性豊かな生徒たちに囲まれて新しい時代のために柔軟な発想・新しいアイディアを生み出せる人間になれと言われ、

大学はいろんな人間がいても「そういう人だよね」と許容する世界で、

 

だけど

 

就活は

 

髪型をそろえ、髪色を黒にし、同じリクルートスーツを着て、同じような回答を口にする(でも違うことをする・言うのはリスキー)。

それに反発しようものなら「新卒ブランド」を投げ捨てたことになり、「まっとうな」職歴を積むことはできなくなり(なぜかアルバイトは職歴カウントされないことが多い)、それこそ起業したり自営業に従事するより生きていく方法がなくなる。

たくさんの会社があるのに。

いったん型にはまらないと。

ヤトワレにはなれない。

(日本では被雇用者の権利がかなり強いため、特に理由がない限りはヤトワレになることは人生を安定させるためにかなり効果的)

見た目だけでなく、面接の回答も没個性しなければならない。

ここで厄介なのは、就活のアドバイスで、没個性的なESや面接の回答の中で「個性」を出せ、と言われること。

もちろん、私たちが小さいころから培ってきた「個性」ではない。

”仕事をするため”の範囲の「個性」である。

就活にあたり、自己分析することも多いだろう。

そうやって自分のことを深く深く知れば知るほどに、迷子になっていくのが普通だと思うのだが(自我は迷宮だろう)、ESや面接のために整った形にしなければならない。

その過程でせっかく自覚した自分がこぼれ落ちるのだ。

ちなみに、自分をこぼさずありのまま伝えることは就職を遠ざけるのでやめた方がいい。

そして生活の糧である仕事のために”仕事上の人格”のまま居続けるのだ。

それは組織にとって都合のいい人格であるにすぎないのに。

そしてどんどん似通って同じような人間ばかりになっていくのである。

 

それで言われるのだ、「個性的な人がほしい」と。

 

さいころから大事にしてきた個性は、成長するにつれどんどん削られていく。

小学校では長所を伸ばすより短所を直す方を、

中学校では不良のしりぬぐいを、

高校は大学受験のためのロボットに、

大学は来る就活に備えて過ごす飼育場に、

つまらない人間ができていく。

 

高大と資格勉強でちょっと抵抗して、ようやく自我とアイデンティティを確立させたけれど、就活で剥ぎ取られる。

せっかく自分として生きているという実感が得られたのに。

 

いつになったら、個性のまま受け入れてもらえる時代になるのだろうか。

 

 

就活は実に「日本的」だ。

それ以前の教育をいくらテコ入れしたところで、「社会に出る」ためにその儀式を通過しなければならないなら、なにも変わらないだろう。

そもそも「社会に出る」というのがおかしいのだし。子どもも社会の一部なのにね。

でも就活を経ると価値観がすごく変わってしまう、こういう経験があるから「社会人」という区別をしたがるのかも。くだらん。

大手の面接での反省を生かして、準大手の面接に臨んできました。

ありのままの私で受かると思っていた大手が落ちてしまったので、思い切って「きれいな私」部分がなるべく出るようにESから想定回答やら軌道修正したのですが、それが当たったようです。

内定いただけました。

面接中に大手を落ちた理由は何だと思うかと聞かれ、ありのまますぎた・もっと明るい部分を押し出すべきだった、と答えました。

そしたら、内定告知後に面接官に「たしかにありのまますぎるね。仕事だから相手の反応を予測して発言するように」と言われました。

普段の生活や仕事相手ならそこまであけすけに言わないんだけどなぁ、と思いつつ、なら面接でもあけすけに言う必要ないじゃないか、と気づきました。

やはり「きれいな私」が必要なのです。

 

あけすけに言うことが魅力、あるいは誠実さと履き違えていたようですね。

思い返せばそれでアルバイトの失敗もあるわけで…。

もっと早くに気づければよかったです。

こういう気づきがあるから、就活しっかりやれ、って口酸っぱく言われるのでしょうか。

 

それでも。

日本の就活では、「人柄」を重視しどういう人物かわかるようにエピソードを組み立てるように言われます。

そんなに立派な人間なんていないし、人柄の良さと能力の高さはイコールではないのに。

ポテンシャル採用なんて言っていますが、実質良い会社に新卒で入れなければ転職で前職よりよい条件のところに入れる確率は低いため、良い「人柄」のアピールで新卒ブランドを生かさなければなりません。(そもそも新卒ブランドってなんだよ、って感じですが)

ポテンシャル採用がある一方で、能力で採用されることはありません。

就活市場における「能力」とは実務経験であり、社会人経験がない状態では「人柄」アピールするほかありません。

ポテンシャル採用に利用されることが多い「大学時代の経験」に自信がなければ、「人柄」アピールもままなりません。

私は大学時代が暗黒期だったので、アピールポイントがなく、したがって「人柄」アピールはできませんでした。

だから能力で評価されたくて、とある資格をとったのですが、その就活ではみな同じ資格を持っているため、結局「人柄」アピールせざるをえなかったのです。

日本では、「能力で評価」はないのでは、と思います。

面接の上手下手がキャリアに直接かかわってくるのです。

(理系の研究室推薦は口下手な学生をフォローしているといえる)

それでいいのかな、なんて、思うのは、負け犬の遠吠えでしょうか。

 

能力を見るために、ディベートをしたり、ワークショップをしたりしても、結局最終的には面接に依ります。

私は面接が絶望的にへたくそですから、就活にずいぶんてこずりました。

ディベートやワークショップで手ごたえがあっても、面接で「この子ダメだわ」と思われてしまうのです。

人と話すことは苦手ではないのですが、自分を良く見せる、ということに心理的抵抗があり、また”本当の自分”を発掘するのも大の苦手なのです。

だからずっと私の能力に注目してほしかった。

新卒で働けなければ、職歴もなしです。職歴がなければ日本では能力がない(少なくとも測ることができない)とされます。

だから、面接でつまずいた私はずっとつらかった。

面接が絶望的な人でもどうにか認められる仕組みがあったらいいのにな、と思いました。

 

でも今、なんとか内定を得ることができました。

もう暗黒の大学時代を語りたくはありません。

これからは経験を積んで、今度こそ「能力」で評価されてみせます。