覚書
仕事する人格で仕事する。
仕事する人格はプライベートの人格とは異なる。
仕事とプライベートが分かれすぎているのって結構問題では????
妊娠出産に代表されるように、プライベートの出来事が仕事に影響を与えることはおかしくない。
というか生きるというレベルでは、仕事もプライベートも同じ俎上に乗る。
最近ようやく(?)妊娠出産に対しては理解を示そう、休業を認めて子どもを育てやすい環境にしよう、というのが当たり前になりつつある。
でも、セクマイは。
セクマイに対する理解を掲げている会社だって多くないし、その理解も十分とは限らない。
でも日常の会話で普通に出てくる。
結婚は、恋人は、子どもは。
世間話の線上で普通に語られる。
そういったところに、セクマイがいる、理解しよう、という動きは素晴らしいと思う。
でも、それは根本の部分で、仕事とプライベートは分けているという建前と、仕事とプライベートがごちゃ混ぜになっている現状に目を背けている、ということがあるように思う。
セクマイを見えないものとして扱いたい人たちは「彼ら/彼女らがプライベートでどうしてようが関係ない」という思いがあるように思う。
それこそ、就活の話で指摘した「仕事上の人格」を重視するというものだ。
でも、ストレートであれば受けられる福利厚生を受けられないとか、確実に仕事に影響があるのだ。
セクマイに理解がある状況というのは、「仕事上の人格」からはみ出た、その人自身の部分も受け止めるということだ。
とここまで考えたときに、ありのままの自分で就活し仕事することがなぜダメなのか、わからなくなる。
ありのままの自分だって、友達に嫌われたくないし、集団を乱そうとは思わないし、うまくやっていこうと努力する。
それじゃいけないのか。
はみでたありのままを受け止めるなら、最初からありのままで仕事してもいいんじゃないか?
うまくまとまらないので脱兎