人生3回目(?)の就活を経ての感想

 

・面接でうっかり他者の悪口を言ったら落ちる

前社がブラックだった、志望理由に○○じゃないから(△△は体育会系で合わない御社はそうではないなど)という言い方はいかん、他者を貶めるような言い方(うっかりでも、説明しやすくても)はすぐ評価がマイナスになる

・ありのままの自分を出しすぎると落ちる

後ろ向きな部分や黒歴史・闇部分をそのまま語るのはよくない

聞こえがいい言い回しに変える

ありのまま=誠実 ではない

採用側は仕事人としての人格を見ているので、仕事面での人格をアピール(「きれいな私」)

・(自分は自信がないから)(組織の決定に従い)どこでもいいです、は落ちる

()内は聞こえないし、とりあえずでいいから、○○がしたい、と決め打ちする

謙虚だったり思慮深いっていうのはここで発揮するものではない

・もちろん受け答えに嘘はつかない、ただきれいな言葉に言い換える

・面接本などの想定問答集はやっておくといい

苦手な人はどんな人ですか、そういう人と仕事する場合どうしますか等、(プライベートなら苦手な人は避けるだけだけどなぁ)などど思わず、仕事用の対応を考えておく

回答がすらすら出てくるととても良いので想定問答くらい考えておく

・短所に対する対抗策は考えておく

短所に対応する術が確立されていればそれは短所ではないのでは?など考えてはいけない

日本的な感覚だと、長所を伸ばすより短所を補う方を聞きたくなるらしい

・個人面談があるところは積極的に参加して囲い込みたいと思わせる

出来レースの可能性もあります

面接の出来がよければ受かる、なんて幻想ですよ

 

所感として、自分自身から抽出した「きれいな私」が有用かな、と。

もちろん想定外の質問に対してはゼロ距離の私が考えるわけですが、用意できるところだけでも「きれいな私」(自分から10センチくらい離れているイメージ)を作っておくとぼろが少なくなるかなぁ、と。

あくまで仕事仲間を探しているので、ゼロ距離の私が卑屈でも仕事が円滑に進められるだけの仕事上の人格を有して入ればいいのです。

よく面接のアドバイスで、素直に正直に、というのがあるが、素直すぎるのも正直すぎるのもアウト。

「仕事上」の素直さ、正直さを出せばよいのです。

 

これを大学生のときに気づいておきたかった…orz

馬鹿正直にやってうまくいかないのも当然である。

ちなみに大学生のときは、自分の大学時代そのものが暗黒史だったため、きれいにパッケージできないとあきらめておりました。

今は、むりやり喋れるエピソードに一般的な感想を組み合わせて、人様に出せるようにラッピングできるようになりました。

人は納得したい生き物なので、理想と違う大学生活でもそれっぽく構成しなおすことは可能なのだなぁという感想。

ゼロ距離の私の感想は、大学時代つらみ、の一言に尽きるのですが。

愚痴

翌日の面接の申し込み締め切りは15時である。

つまり大手から内定通知があった人は、15時までなら面接をキャンセルすることができる。

そして16時現在、面接時間を動かすことができないか連絡がきた。

きっと内定通知を受け取った人達が面接予約をキャンセルして枠があいたのだろう。

つまりはそういうことだ。

一応、採否は明日までに来ることになっているが、採用者から順に連絡するのが普通であろう。

あーあ、やっぱり私は大手には向いていないらしい。

就活で大手行かなきゃ、と思って失敗して、有資格者になれれば大手も入りやすいかと甘い算段で。

大手にこだわるのは、できる業務の幅が広いことと福利厚生の手厚さ。

そんな理由じゃ足りないよね。

あと、世間体。親を納得させるには大手が一番。

過剰な期待がかかっているので。

親の満足と、私の福利厚生という意味での満足を充足させられる大手にこだわるのは、もう限界なのだな。

あー。

就活終わりません。

恋愛アレルギー

恋愛アレルギーについて考えてみる。

 

私にとって恋愛とは恥ずかしく、自分が自分でいられず、コントロール不可の状態に陥ることである。

一方で、フィクションに描かれる恋愛は素晴らしく、いつかこんな素敵な恋愛ができたらいいのにな、と思う。

現実と虚構の区別がついていないと言われればそれまでなのかもしれない。

それでもたしかに恋愛はすばらしく、またとてつもなく厄介なものであるということは、たった一度ではあるが交際経験を以て言うことができる。

 

さて、おとぎ話では多くの場合、お姫様は王子様と結婚して末永く幸せに暮らして終わりとなる。

さて、多くの場合、人間は同性と自分を重ねるものである。

では、肉体が女の私はお姫様に憧れるべきなのか。

王子様と結婚してそれが幸せなんて思えなかったので、私はお姫様に憧れることはなかった。

一方で、お姫様に憧れる女の子もいることは事実で、それが私には理解できなかった。

また、多くの物語で、男の子と女の子は最終的に結ばれる。

ボーイミーツガールの物語群は多いし、少年漫画だって男女の恋愛は最終回の締めに採用されたりする。

また、男女間に友情は存在しないという考えが、私の小さいころは圧倒的だった。

そうした状況の中で私がたどり着いた結論が、男性と女性がいると恋愛が生まれる、というものである。

つまり、ほかの男女が存在しない無人島のような環境では、好むと好まざるとに関わらず発生しうる不可避なもの、と考えたのだ。

今思うと実にバカバカしいものだが、しかしこの考えは長いこと私を苦しめた。

 

つまり、男子がいる場では、必要以上に意識してしまってちっとも自然にふるまえなかったのである。

この中のだれかと恋仲になるのではないか、あるいは恋によって理性がきかなくなるのではないか、と常におびえていた。

まったくタイプではない人に好かれるのは嫌だから、関わりを持たないようにした。

少しでもいいなと思う人は過剰に意識してしまい、まったく普段通りにできなくて支障が出たので、避けるようにした。

それで完成したのが、男嫌いである。

 

一度女の子と付き合ったもののそれをオープンにする勇気もなく、次は男の子と付き合ってみようと思ったものの、上記の男嫌いである。

結局今に至るまで、男性と付き合ったことはない。

よって、普通の恋バナというものに参加できず(提供する話題がないため双方気まずくなる)恋愛からますます遠ざかってしまった。

 

また女の子と付き合ったことをオープンにできなかったのも恋愛アレルギーに拍車をかけた気がする。

彼女といて楽しかったこと、つらかったこと、苦しかったこと、その全部を自分の内に閉じ込めておくことで、終わった恋を乗り越えることができなかった。恋愛の苦しさや自分の至らなさばかり思い出されて次の恋愛に進めなかった。

 

近年ようやく信頼できる人に出会えてすべてを話し乗り越えられた。

また自身がXではないか、と思い至ることで、男性も女性も過度に意識する必要がないことに気づいた(私にとって呪いのような”男女”関係から自身は外れていること、Xであるがゆえに明確な異性は存在しないことがそう思わせた)。

 

最後の恋愛からオリンピックがいくつか過ぎたけれど、自分の答えがようやく見つかってほっとしている。

恋愛アレルギーが少しでも良くなって、私も幸せになれるといいな。

その”幸せ”は、恋愛が満たされていることと同義でない可能性ももちろんあるけれど。

私は手術の同意書を書いてほしい

結婚とは手術の同意書を書いてもらうためにするものである。

 

これが私なりの結婚をしたい理由だ。

昨年初めて結婚式に参加し心底吐き気を催した私が、なんとかしてたどり着いた結論である。

気づけば私も20代後半。恋愛アレルギーもあって身近な人間が結婚するという場面に出くわすことがなかった私だが、ついに現実は襲い掛かってきた。

結婚適齢期である。

子どもの時分から学生時代に至るまで、結婚はしたくない、あるいは結婚したいと思えるほどの出会いがなければしなくていい、という考えで生きてきた。

苗字を変えるのは戸籍上女性が圧倒的に多数だし、戸籍上女性だと家の女と書いて「よめ」と呼ばれたり、あるいは戸籍上男性のことを「主人」なんて呼んだりする。

そんな圧倒的に男女非対称な関係を、わざわざ婚活してまで結びたいとは思っていなかったのだ。

それは「女の子は結婚に憧れる」だとか「わたしねー、パパとけっこんする!」という幼女の”典型的な”戯れだとか「女子って恋愛が好きだよなー」といった、世間様に対抗するアンチテーゼ的な意味もあった。

しかしそれは反発であり、結婚のメリット・デメリットを検討したうえでの最終結論ではない。

結婚しない女、っていうのもなんかかっこよかったし。

だが、そんな私にもさすがに結婚に対するスタンスを確定させるべき時期が来たのだ。

 

ところで、私が20代後半になれば、親は当然高齢化する。

数年前に母が救急車で運ばれたときは心底肝が冷えた。

父母は夫婦仲が良くなく、加えて父はちっとも頼りにならない人間である。

救急隊員との連絡であるとか、母の入院手続きであるとか、そういうのは配偶者たる父がすればいいと思っていたのだが、私の想定以上に彼は何もできない人だった。

それでも入院の同意書には父の名前を書くことができるし、きっと緊急手術となれば私の名前ではなく、父の名前が記されるだろう。

幸い母は一週間程度で退院でき、その後もなにごともなく済んだ。

それでもこれからこういったことがまた起こるかもしれない。

そして私自身も健康な10代20代から別れを告げ、いつ病気やケガをするともしれない。

そのときに、私の手術の同意書を書いてくれる存在はいるのか。

父母亡きあとに、意識のない私の代わりに「可能性があるのならできることはなんでもしてください」とサインしてくれる人はいるのか。

考えてしまったのである。

 

私には弟がいるが、これが父に似てなんとも頼りない。加えて人の心の機微に鈍感である(これは我が家に共通する欠点である)。

そして今現在別居しており、将来もその可能性が高い。

彼をあてにするのはよくないだろう。

となると遠い親族を探すより、自分で信頼できる他人に頼むのが良いように思われた。

そして他人に同意書を書いてもらってそれを受理してもらえるのは、婚姻関係なのだと思い至ったのだ。

そこで世間様が結婚、結婚うるさいことに、妙に納得してしまった。

結婚は、安全保障なのである。

仲の良くない父母でも、頼りない父でも、母を助けるために手術の同意書を書くことができる。

自分の命を守るために、他者と約定を交わしておく。

その最たるもので、最も簡単な契約関係が、婚姻なのである。

となると、アンチ結婚だった私だが、とたんに結婚したくなってしまった。

私の命を守るために、信頼できる他者と婚姻関係を結んでおきたいと思った。

 

そこでますます同性婚が認められないことの問題点にもぶつかってしまった。

私はパンセクシャルである(実際には女性としか付き合ったことがないので、バイかもしれないしビアンかもしれないのだが、気持ちとしてはパンである)から、その「信頼できる他者」が戸籍上男性であるとは限らない。

いやそもそも「信頼できる他者」という定義だけでは性別は問わないだろう。

しかし法律婚するには、戸籍上異性である必要がある。

私の場合は戸籍上男性でなければ婚姻関係を結べない。

安全保障であるはずの婚姻制度は、セクシャルマイノリティを排除しているのだ。

これではせっかくアンチ結婚から結婚したがりに鞍替えした意味がない。

セクシャルマイノリティが切実に結婚制度を求めることが、心の底から理解できた。

子どもがどう、少子化がどう、ではない。今と未来の、私自身の、安全にかかわるのである。

もちろん好きな人と結婚する自由の保障であるし、家庭を持つことで親からの自立という意味もある。

子どもを設けるためだけの結婚制度か。

結婚とは、なにもそのためだけにするものではないはずだ。

 

私は、安全保障のために結婚がしたい。

そしてその選択肢は広いほうがいい。

結婚適齢期にそんなことを思うのである。

日記 ー結婚診断ー

つい先日自分はXジェンダーではないか、と思い至りそれが思った以上にしっくりきた。

そのことで今まで理解できないものとして嫌悪していた「結婚」からも適切な距離をとることができ、とてもすがすがしい気分になったのだ。

しかし、ツイッターのトレンドにあった結婚診断なるものを好奇心のままやってみると、その結果に自分でもびっくりするほど傷ついたのである。

結婚採点は6点。百点満点中、である。

しかもこれは精神状態に左右されるもので、それに左右されない潜在的な数値も26点と相当低い。

私はこの結果になぜか傷ついた。

解説を読めば、私は我慢強くなく、すぐ感情を出し、やらなければならないことを先送りする、周りからは相当なダメ人間だと思われているらしいのだ。

 

結婚は「男性」と「女性」がすることで私には関係ないことだ、と切り離していたのに、いざあなたは結婚に向いてないです、と言われるともやもやする。

私は愛される資格がないのだ、と長いこと思っていた私に改めてそのことを突き付けた形だ。

初めての彼女を傷つけたり、親に愛された記憶がなかったり、どうにもならない感情の起伏を責められたり、愛される資格がないことに自信を深めていった過去。

それでもここ数年は、信頼できる人との対話を通じ、多少は前向きになれて、マシになっていたのに。

乗り越えた過去がすごいスピードで殴りかかってきたかんじ。

 

でも解説を読むと、私の理想とする結婚とは程遠いものが想定されているらしく、たとえば我慢強いことが要件をされているらしい。

結婚なんてふうふの数だけあるはずなのに、なにかが想定されているようだ。

私は手術の同意書をかいてほしいので、信頼できる人がいれば結婚したいと思っている程度なのだが。

なのにこう、採点されて、あなたが愛される資格がありません、と言われると悲しくて仕方ない。

男女二元論から見事に抜け出せたと思ったのに。

結婚はまだまだ男女二元論の文脈の中で語られるものらしい。

今度は自分の性別は男性で診断やってみようと思う。