所感
社会で生きていくことは、社会に適合することであり、そして個性が剝ぎ取られることである。
そんな所感を抱いてしまう、アラサーです。
私が育った時代は、個性を大事にしよう、と言われ始めた時代でした。
幼いころは、みんな違ってみんないい、と言われ、
小学校では多様な意見を言うように言われ、
中学校は連帯責任で不良のための学年集会に付き合わされ、
高校は個性豊かな生徒たちに囲まれて新しい時代のために柔軟な発想・新しいアイディアを生み出せる人間になれと言われ、
大学はいろんな人間がいても「そういう人だよね」と許容する世界で、
だけど
就活は
髪型をそろえ、髪色を黒にし、同じリクルートスーツを着て、同じような回答を口にする(でも違うことをする・言うのはリスキー)。
それに反発しようものなら「新卒ブランド」を投げ捨てたことになり、「まっとうな」職歴を積むことはできなくなり(なぜかアルバイトは職歴カウントされないことが多い)、それこそ起業したり自営業に従事するより生きていく方法がなくなる。
たくさんの会社があるのに。
いったん型にはまらないと。
ヤトワレにはなれない。
(日本では被雇用者の権利がかなり強いため、特に理由がない限りはヤトワレになることは人生を安定させるためにかなり効果的)
見た目だけでなく、面接の回答も没個性しなければならない。
ここで厄介なのは、就活のアドバイスで、没個性的なESや面接の回答の中で「個性」を出せ、と言われること。
もちろん、私たちが小さいころから培ってきた「個性」ではない。
”仕事をするため”の範囲の「個性」である。
就活にあたり、自己分析することも多いだろう。
そうやって自分のことを深く深く知れば知るほどに、迷子になっていくのが普通だと思うのだが(自我は迷宮だろう)、ESや面接のために整った形にしなければならない。
その過程でせっかく自覚した自分がこぼれ落ちるのだ。
ちなみに、自分をこぼさずありのまま伝えることは就職を遠ざけるのでやめた方がいい。
そして生活の糧である仕事のために”仕事上の人格”のまま居続けるのだ。
それは組織にとって都合のいい人格であるにすぎないのに。
そしてどんどん似通って同じような人間ばかりになっていくのである。
それで言われるのだ、「個性的な人がほしい」と。
小さいころから大事にしてきた個性は、成長するにつれどんどん削られていく。
小学校では長所を伸ばすより短所を直す方を、
中学校では不良のしりぬぐいを、
高校は大学受験のためのロボットに、
大学は来る就活に備えて過ごす飼育場に、
つまらない人間ができていく。
高大と資格勉強でちょっと抵抗して、ようやく自我とアイデンティティを確立させたけれど、就活で剥ぎ取られる。
せっかく自分として生きているという実感が得られたのに。
いつになったら、個性のまま受け入れてもらえる時代になるのだろうか。
就活は実に「日本的」だ。
それ以前の教育をいくらテコ入れしたところで、「社会に出る」ためにその儀式を通過しなければならないなら、なにも変わらないだろう。
そもそも「社会に出る」というのがおかしいのだし。子どもも社会の一部なのにね。
でも就活を経ると価値観がすごく変わってしまう、こういう経験があるから「社会人」という区別をしたがるのかも。くだらん。