恋愛アレルギー

恋愛アレルギーについて考えてみる。

 

私にとって恋愛とは恥ずかしく、自分が自分でいられず、コントロール不可の状態に陥ることである。

一方で、フィクションに描かれる恋愛は素晴らしく、いつかこんな素敵な恋愛ができたらいいのにな、と思う。

現実と虚構の区別がついていないと言われればそれまでなのかもしれない。

それでもたしかに恋愛はすばらしく、またとてつもなく厄介なものであるということは、たった一度ではあるが交際経験を以て言うことができる。

 

さて、おとぎ話では多くの場合、お姫様は王子様と結婚して末永く幸せに暮らして終わりとなる。

さて、多くの場合、人間は同性と自分を重ねるものである。

では、肉体が女の私はお姫様に憧れるべきなのか。

王子様と結婚してそれが幸せなんて思えなかったので、私はお姫様に憧れることはなかった。

一方で、お姫様に憧れる女の子もいることは事実で、それが私には理解できなかった。

また、多くの物語で、男の子と女の子は最終的に結ばれる。

ボーイミーツガールの物語群は多いし、少年漫画だって男女の恋愛は最終回の締めに採用されたりする。

また、男女間に友情は存在しないという考えが、私の小さいころは圧倒的だった。

そうした状況の中で私がたどり着いた結論が、男性と女性がいると恋愛が生まれる、というものである。

つまり、ほかの男女が存在しない無人島のような環境では、好むと好まざるとに関わらず発生しうる不可避なもの、と考えたのだ。

今思うと実にバカバカしいものだが、しかしこの考えは長いこと私を苦しめた。

 

つまり、男子がいる場では、必要以上に意識してしまってちっとも自然にふるまえなかったのである。

この中のだれかと恋仲になるのではないか、あるいは恋によって理性がきかなくなるのではないか、と常におびえていた。

まったくタイプではない人に好かれるのは嫌だから、関わりを持たないようにした。

少しでもいいなと思う人は過剰に意識してしまい、まったく普段通りにできなくて支障が出たので、避けるようにした。

それで完成したのが、男嫌いである。

 

一度女の子と付き合ったもののそれをオープンにする勇気もなく、次は男の子と付き合ってみようと思ったものの、上記の男嫌いである。

結局今に至るまで、男性と付き合ったことはない。

よって、普通の恋バナというものに参加できず(提供する話題がないため双方気まずくなる)恋愛からますます遠ざかってしまった。

 

また女の子と付き合ったことをオープンにできなかったのも恋愛アレルギーに拍車をかけた気がする。

彼女といて楽しかったこと、つらかったこと、苦しかったこと、その全部を自分の内に閉じ込めておくことで、終わった恋を乗り越えることができなかった。恋愛の苦しさや自分の至らなさばかり思い出されて次の恋愛に進めなかった。

 

近年ようやく信頼できる人に出会えてすべてを話し乗り越えられた。

また自身がXではないか、と思い至ることで、男性も女性も過度に意識する必要がないことに気づいた(私にとって呪いのような”男女”関係から自身は外れていること、Xであるがゆえに明確な異性は存在しないことがそう思わせた)。

 

最後の恋愛からオリンピックがいくつか過ぎたけれど、自分の答えがようやく見つかってほっとしている。

恋愛アレルギーが少しでも良くなって、私も幸せになれるといいな。

その”幸せ”は、恋愛が満たされていることと同義でない可能性ももちろんあるけれど。